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vol.10 ハンジ・ゾエ
2017.05.18 Updated.
 兵士として公に心臓を捧げたときから、贅沢品とは無縁の生活になったはずだった。
 こと、ハンジは身を置く調査兵団は、壁の外が主戦場だ。憲兵団のように豪奢な暮らしも、駐屯兵のような安定した暮らしは望めないし、そもそも望んでいない。
 ところが、エルヴィンが団長に就任し、ハンジ自身も分隊長という役職を与えられてから、少し事情が変わった。
「ハンジ。すまないが、支援者への挨拶を頼めるか。先方の予定が重なってしまい、私だけでは回りきれそうにないんだ」
 ……といった仕事で、都市部の金持ちと接触することが増えたのである。

 エルヴィンが団長になって以降、調査兵は積極的に新しい戦術を試し、そのために多くの資金を必要とするようになった。巨人討伐の期待をかける世論の後押しを背景に、裕福な商人が投資をもちかけてくることさえある。
 ハンジが送り込まれたのは。そうしたパトロンのひとりで、内地に屋敷を構える成り上がりの商人だった。
「贅沢な家だな。調査兵が全員住めそうだ」
「高級食材の流通で一財産を築いた商人で、本人も美食家で通っているそうです。もとは貧乏な料理店の息子だったそうで、憲兵を支援する旧家の貴族とは犬猿の仲。今回調査兵団の支援を申し出たのも、そうした貴族に対抗するためでしょう」
 ついてきたニファが資料を読み上げると、その横でモブリットが気遣わしげな視線を送る。
「分隊長、くれぐれも失礼のないように……」
「わかってるよ。私だって子供じゃないんだ。少し驚いただけ」
 大きな建物は、動きづらい礼装のコートを着た兵士たちを威圧するように佇んでいた。

 話は至極くだらないものに思われた。
「いや全く、勇敢で知られるハンジ分隊長殿に、その部下の皆様とこうして晩餐をともにできるとは、光栄の極みですぞ」
「はあ……ええ、いや、大変けっこうなお食事で」
「分隊長殿は、連日巨人の生体研究に邁進なさっておられるとか。気晴らしになればとご用意したまでです。どのような研究か、ぜひお聞きしたいですな」
 形ばかりの調査兵への賛辞、さりげない戦果の確認、人の価値を値踏みする視線。
 
こいつらに、世界の真実を知ろうなどという志はない。ただ、調査兵が巨人に奪われた土地や財産を取り戻したとき、いち早くその利益を掠め取ろうという、打算があるだけなのだ。
 調査兵はいつも、明日をも知れない戦場に身を置いているというのに……
「どうかなさいましたかな、分隊長殿? 本日は王都でも最高級と名高いぶどう酒を用意いたしましたが、お口に合いませんか」
 何が最高級だ、こいつが搾取をやめれば、貧困にあえぐ市民が飢えずにすむじゃないか。
「(私は……お前たちみたいな豚野郎を肥え太らせるために戦っているんじゃない)」
 苛立ちが顔に出ないよう、思わず握りつぶしそうになったグラスが、すっと手元を離れた。
「分隊長は、夜を徹した研究の疲れで体調を崩していまして、酒を控えておられるのです」
 見れば、それまで物静かに会話を聴いていた副官が、さりげなくグラスを遠ざけていた。

 けちな商人はしかし、ハンジのそうした遠慮をむしろ、喜んだ様子だった。彼らが飲むはずだったボトルを、独り占めできたのだから。
 そして高価な酒で機嫌よく酔っぱらったところを、うまく色をつけた支援金を引き出すこともできた。
「あれからは、贅沢品を見てもなんとも思わなくなったよ。むしろどう交渉に使ってやろうかと思うくらいでね」
 時は流れ、壁内の政治体制が変わってからも、ハンジがはじめて大口の支援をとりつけたときのことは語り草になっていた。あれから金持ち連中の扱いを覚え、何をすれば金を引き出せるのかもわかるようになった。
 その手腕は今、動乱のもとで揺れる富裕層を体制に組み込むため公然と振るえるようになっている。
「しかし……今となってはもったいないな。モブリット、飲んでおけばよかったのに」
「私に高級品の味はわかりませんので」
「それは、私もそうだ。でも……」
 あのとき側にいて、今いない部下たちのことを思う。当時は余裕がなかったが、せめて彼らに贅沢でもさせておけばよかった、と思うようになったのだ。
 
それは、明日をも知れない兵士だからこそ。
「……フレーゲルに、何かいいものが入っていないか聞いてみるか。皆には気晴らしが必要だろ」
 副官はその思いを察したのか、表情に出すことはなく、淡々となじみの商人に連絡をとる手配をはじめた。
[了]

ミカサ・アッカーマン
サシャ・ブラウス

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